報告:国際ワークショップ/第45回ベルクソン哲学研究会

 

「ベルクソンにおける持続とその数学的射程」

Bergsonian « duration » and its mathematical ranges

 

 

日時:929日(日)

場所:東京大学本郷キャンパス 法文1号館215教室

 

主催:平成29 年度科学研究費補助金・基盤研究(C)課題番号JP17K02200研究代表 永野拓也)

共催:ベルクソン哲学研究会

後援Project Bergson in Japan (PBJ)

*主要言語はフランス語・英語。通訳なし

 

プログラム

 

セッション1 12:30-14:30

1.初期ベルクソンにおける多様性の問題『試論』から『物質と記憶』まで

   岡嶋隆佑(慶應大学)

2.記憶のベルクソン的・幾何学的構造

   セバスティアン・ミラヴェット (トゥールーズ・ジャン・ジョレス大学)

 

セッション2 14:50-16:50

1.非決定性の一因子としての持続の非局所的性格

   エリー・デューリング (パリ・ナンテール大学)

2.Occurrent Continuantの間で:ベルクソン的持続の『コレージュ・ド・フランス講義1902-1903年』における位置づけ

   永野拓也 (熊本高等専門学校)

3.全体討論 17:00-18:00

 

概要

 今回の国際ワークショップは、代表者(永野)の科研費研究計画の一端として企画したものである。研究計画はベルクソンの持続の哲学と数学的な対象や概念との関係、およびその発展に関するものである。今回のワークショップでは、それなりの仕方でベルクソンの持続論を数学的対象・概念と結びつけて考察されてきた研究者の方々に発表をお願いした。発表と議論をとおして、この領域での研究の発展と深化のための示唆を得ることが今回のワークショップのねらいである。以下発表と議論を順に要約する。

 

  岡嶋氏は『意識に直接与えられたものについての試論』(以下『試論』と略す)から『物質と記憶』への移行にともなう多様性概念の発展を追求した。まず『試論』に数的多様性と質的多様性の概念のあることが指摘される。ベルクソンが持続を、質的多様性であるかぎりにおいて一種の数として提示する、という解釈を以前から提示していたのはミラヴェットである。岡嶋氏はこの見解を、一種の数であるためには、質的多様性の構成要素は異質的にすぎると批判する。そして『物質と記憶』において、物質的震動における希薄な持続から、はじめて互いに同質な構成要素を持つ多様性が導き出されると岡嶋氏は指摘し、この多様性を、「感性的多様性」と呼ぶ。本当に一種の数と呼びうるのはこの感性的多様性ではないか、というのが岡嶋氏の論点である。この指摘に対しミラヴェットは、数としての持続の知見が洗練されるのは『試論』においてであると応じた。ミラヴェットによれば、ベルクソン自身が実際、いくつかの箇所で「数」(nombre)という語を用いているし、また数としての持続の構成要素が絶対的な意味で異質であることはない(「ニュアンス」という根本的な観念がそれを示す)。

 

ミラヴェット自身は『物質と記憶』を中心として、多様なものを貫く同一の、しかしまた動的な構造を、ベルクソンが知覚や記憶に見出そうとすると指摘した。ミラヴェットはこの構造と、同値類としての数学的構造との近さを指摘するように見えるが、ただミラヴェットは前者のベルクソンにおける構造の動的な性格を強調する。ミラヴェットのこの解釈はデューリングとの間で活発な議論へと発展する。ミラヴェットは作用としての記憶(mémoireの全体のうちに動的構造を読み取る。ベルクソンが指摘する記憶の潜在性はこの動的構造の作動の潜在性に集約される。したがってその一局面としての、内容としての記憶(souvenir)それ自体も、内容としての記憶の総体としての「平面」(plan)も、それ自体のうちには(ドゥルーズ的な意味での)潜在性を持たないものとみなされる。言い換えれば、純粋記憶において意識の平面は継起的に次々と出現するのであって、共存することはない。対してデューリングは次のように主張する。「それら自体のうちにおける」諸々の記憶は、記憶のうちに蓄えられる知覚エピソードの離散的な複製に還元されてはならない。これらの記憶は心理学的な無意識のうちで、様々な「解像」度の非−局所的(かつ潜在的)な存在様態を享受する。その限りでは、諸々の記憶の一性は、共存する平面の多数性を横断して配分されている。意識としては、これらの平面を想起の行為のうちで現勢化するのである。諸平面のこうした多数性は本性からして質的である。私たちが「個別の記憶」として言及しがちな記憶の一性に作用する潜在性の要素は、持続のどんな現実性に巻き込まれてしまっているものと比べても、とりわけ、現在のうちでの過去の潜在的な連続と比べても、もはや神秘的であってはならない。私たちがここで問題にするのは、個別な記憶のそれぞれが、全体としての過去によって潜在的に汚染されているということである。無意識のうちでの諸々の記憶の精緻化は絶えず進行しているのであって、これは私たちがそれらの記憶を想起しようとするかどうかとは関係ない。

 

デューリングのミラヴェットに対する批判は、人間の記憶という特殊事例のみならず、複数の持続の共存そのものをめぐる彼の考え方にもとづく。このことを示すのが彼自身の発表である。デューリングによれば、真正の非決定性と不可分に結びついているものがある。それは宇宙内の現実の同時性関係という形をとって、複数の持続の間の分離の度合いが現れてくる、その仕方である。相対性理論は、位置から位置への因果的接続が不可能な、時空のうちで空間的に分離された出来事の関係として同時性を定義することで、この一般的な状況を形式化している。デューリングの指摘によると、非−局所性の理解の拡張という展望のもとで私たちが考察しているこのような分離によって、複数の時間的系列の予見できない仕方での遭遇が可能となる。非−局所性の理解の拡張というこの展望の導入にあたっては、相対論や量子力学が参照されている。同じく参照されるのがクールノによる「運(chance)」の定義であり、ここで「運」は相互に独立な因果系列の干渉の表現として定義されている。デューリングが示すところでは、ベルクソンの持続理論に見られる、ある全体論的側面と、この展望とは一定の仕方で共鳴する。持続の内で状態が実現するということが、ベルクソンにとってそれ自体として真に予見不可能であるなら、それは過去たるかぎりの過去の連続的な「作用」の取り込みによってである。この過去の連続的な「作用」の取り込みは、反復のうちに差異の尺度を持ち込むことによって、ライプニッツの不可弁別者同一律の時間的な等価物として働くのである。とはいえ、それぞれの現在のもとで過去が全体として保たれるという意味で過去が有力であることと、共存する複数の持続が互いに抜き差しならない関係にあるそのあり方とは対応する。複数の持続のこの関係は、持続同士の共存が緩く、分離の要素を取り込んでしまう場合にも成り立つ。この一般的解釈は、複数の記憶の潜在的共存についてのベルクソンの理解からも導かれうる。記憶の構造化された全体が動的であり、予見不可能かつ創造的な遭遇や干渉が可能だというなら、それはこのような構造の諸要素が互いに同時性の諸関係を保ち、したがって非−局所的な意味で接続されているからである。記憶の様々な内容は、定まった追跡可能な経路を通して接続されるわけではないし、明瞭な境界線で分離されているわけでもない。諸々の記憶内容の共存は潜在的である。諸々の記憶内容が横断し、そこへ自ずと配分されるところの諸平面も共存するが、この共存も同じく潜在的である。同様に、遠隔的な同時性の諸関係は、それぞれの持続の展望からすれば潜在的(かつ絶対的)である。確かに、抽象的で特定の位置を持たない観点から共存の場の全体を「見渡す」物理学者の眼には、同時性の諸関係は現勢的(かつ相対的)に見えるかもしれない。だが実をいえば物理学者にとってすら、複数の持続が局所的な共−現前の一つの関係において出会い、またそれらの持続における過去の共存が具体的な形をとるときに初めて、同時性の関係は遡って決定されるのである。

 

このようにミラヴェットとデューリングの主張は、ベルクソンの持続論における全体‐部分関係についての一定の考え方に、それなりの仕方で依拠しているように見える。永野も別な仕方で、ベルクソン哲学における全体-部分関係の本性を捉えようとしている。検討の領域として永野は1902-1903年のコレージュ‐ド‐フランスにおけるベルクソンの講義を取り上げた。はじめに永野はP. Simonsにならって、二種類の時間的な継続を導入する。一方はOccurrent(またはPerdurant)であり、こちらは時間的部分を持つ。他方はContinuant(またはEndurant)であり、こちらには時間的部分はない。Continuant は、Occurentの集まりが同値類の構造を形成する場合に、Occurrentの上に見出されるものと解釈される。時間的実在性についての伝統的な哲学概念をベルクソンが分析する際、これらの概念は、同値類という意味でのContinuantとして提示されているように見える。時間的実在性を歪曲する概念を批判するとき、ベルクソンは持続が部分を持たないことを指摘する。この意味で持続は、Continuant にもOccurrentにも明晰に分類しがたい。持続はしかし、そのリズムがより弛緩した持続を凝縮する。この構成により、講義において記述される持続は、弛緩した持続を凝縮することで同値類を形成するような、一種の構造的な全体であるように見える。ベルクソンはこの枠組みのもとで近代力学の誕生を分析するが、このとき持続は複数の方向性をはらむものと考えられている。数学的にはこれらの方向性は、ある量を不変に保つことによって一種の同値類を形成する構造として記述される。こうして、持続は数学的構造のための基礎をなす構造とみなされている。しかしこの持続の内なる構造は、数学的な仕方で概念化されることはない。

 

残念ながらセッション2では、発表について議論を行う十分な時間がなかった。しかし2つ発表においては、ベルクソンの持続論の検討を通して持続の構造的特徴が強調された。またデューリングによれば、同時性の共存についての彼の展望は、1903年の「形而上学序説」のいくつかの箇所によって裏づけられる。永野が示したように、ほぼ同時期のベルクソンの講義は、持続のうちに凝縮された複数の方向性について、同時性についての上のデューリングの考え方と近い見方を示唆している。さらに、ミラヴェットとの論点の共有に加えて、岡嶋が指摘した感性的多様性の知見は、複数の持続の共存についてのベルクソンの記述から導かれている。このように、このワークショップ全体としては、さらなる研究の深化のためのいくつかの論点を共有できたと考えられる。

 

しかしたしかに、ミラヴェットとデューリングの間の議論は中断されたままである。私たちは二人の発表者に、論文の形で議論を再開するよう依頼している。おそらく私たちはこれらの論文をこの場に掲載することになるだろう。また発表者それぞれの発表が論文として雑誌に掲載されることがあれば、許されるかぎりその情報をここに掲載したい(当面、永野の発表原稿をここから参照可能とする)。

 

最後に、本ワークショップの共催を快諾くださったベルクソン哲学研究会の諸氏、とりわけ当日を含む周到な準備に貴重な時間を割いてくださった中原真祐子、野瀬彰子、持地秀紀の三氏に深くお礼申し上げたい。また本ワークショップの後援をご快諾下さり、当日までのご助言と当日のご参加をいただくとともに、この報告をサイトの1ページとして受け入れて下さったProject Bergson in Japan (PBJ)の平井靖史、藤田尚志の両氏に心からお礼申し上げたい。研究者諸氏のこうしたご尽力あって初めて、この企画は実現をみることができた

 

本報告の英語版はこちら

 

UPDATE(2024/04/30):当日、記憶の平面の共存をめぐってかわされたエリー・デューリングとセバスチャン・ミラヴェットの議論を書き起こしたものが、2024年7月に刊行される論集に収録されます(平井靖史・藤田尚志編『〈持続〉の力――ベルクソン『時間と自由』の切り開く新地平』書肆心水、2024年)。仏語原文については2023年、Bergsoniana 第3号(特集:Nothingness and Intuition: Bergsonism in East-Asia)に掲載されています(リンク)。